第28回映画祭TAMA CINEMA FORUM
腎臓の病に冒され、死を間近にしたブンミは、妻の妹ジェンをタイ東北部にある自分の農園に呼び寄せる。そこに19年前に亡くなった妻が現れ、数年前に行方不明になった息子も姿を変えて現れる。やがてブンミは愛するものたちとともに森に入っていく……。
タイの僧侶による著書「前世を思い出せる男」より着想を得た本作は、監督の故郷・タイ東北部の災厄の歴史や記憶をまなざす「PRIMITIVE」プロジェクトの一環として製作された。劇中で映される田舎の風景を眺めていると、不思議と自分の過去も思い出されていく。学生時代に訪れたバンコクの騒がしさ、屈託のない人々の「マイペンライ」の響き、夜行バスにゆられて着いたチェンマイのたおやかさ。その後、何人もの男たちが透析を受ける病院で、所在なげにみえた父はいなくなった。アピチャッポンが描く物語は人、動物、精霊たちのうごめき、それらが自然に混ざり合っている。物語を漂いながらも、すっかりと景色が変わった所に自らたどり着いてしまう。それは、目を開けてみる夢であり、ある時は眠りに落ち、そこはかとないざわめきに導かれ、異界への入口を開けてしまうのだ。闇に包まれ霧がたちこめるなか、私たちは森にみられ、月は下界を照らしている。眠りに落ちている間、スクリーンで佇んでいるものたちはこちらをみつめている。終盤、日常にそっとさしこまれる現象とともに流れる、Penguin Villaの「Acrophobia」がただひたすらにしみる。(内)
米兵が行きかうとある沖縄の町。少年は、この世の終わりが来るのを、コーラフロートを飲みながら待っている。淡々と進む夏休み、ある出会いをきっかけに、少年は自分のなかに渦巻くものを感じ始める。渦巻はやがてその島の持つ自然の力と一体となり、少年をいざなっていく。
本作を劇場の暗闇で二回鑑賞したというより、細胞レベルで体感したという言葉が正しい。スクリーンいっぱいに映し出された少年の頭が刈りあげられる冒頭、毛根は波打ち、輪廻のサイクルが回りだす。少年のまなざしは仏陀のうつしみと思うほど、曇りなき眼で幾層もの物語が重なる世界をそのままにとらえている。街をさまよい歩く少年や白人女性の浮遊する視点とよるべなさ、昼とは明らかに異質で畏怖する時間が流れる夜、語られる妖怪と彼岸の世界、変容していく現実。言葉として名づけられる前の生々しい感情がやんばるの森、原始の海にゆらめいている。意識と無意識を行きつ戻りつ、幾人もの夢に入り込んでしまったような映像と音の波が観るものを溶かしていく。それらが押しよせた先の混沌に光がさしこみ、沖縄という土地に根ざした神話が立ち上がってくるのだ。
ジョッシュ・サフディ監督が本作を語る言葉のように、『KUICHISAN』は観たものの体に入り覚醒していく。今まで自分にはなかったと思っていた、ある感覚に気づいてしまうのだから。
MAIKO ENDOは違う惑星から来た。美しくオリジナルな惑星で、そこで見る色や形は以前見たことがあるようで、実際には完全に新しい。(内)
1981年生まれ、ヘルシンキ出身。2000年に東京からニューヨークへ渡り、バイオリニストとして演奏活動、映画のサウンドトラックへの音楽提供など音楽中心の活動を展開。アメリカ製作のドキュメンタリー映画『Beetle Queen Conquers Tokyo』(09年) で共同製作を務めたのをきっかけに、日米合作長編映画『KUICHISAN』(11年) で監督デビュー。同作は、12年イフラヴァ国際ドキュメンタリー映画祭にてグランプリを受賞。11年から東京を拠点に活動し、日仏合作で長編2作目となる『TECHNOLOGY』(16年) を完成させた。
批評家、編集者。共編書に「激闘!アジアン・アクション映画大進撃」(洋泉社ムック)「アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーティスト」(フィルムアート社)「国境を超える現代ヨーロッパ映画250 移民・辺境・マイノリティ」(河出書房新社)「インド映画完全ガイド」(世界文化社)ほか多数。2008年から東京国際映画祭の選考業務に携わり、アジア映画の未公開作品を多く鑑賞。アプリ版ぴあで水先案内人として映画紹介中。